HISTORY
沿革
/ FOUNDER HISTORY /
松浦 シズエ
MATSUURA SHIZUE
服飾技術教育、女性の地位向上等に貢献
大正11年 (1922年) 5月24日生
植木町出身
県立山鹿高等女学校を卒業後、東京洋裁技芸学院で学ぶ。
昭和二十五年、鹿本郡植木町における私塾洋裁教習所の開設をはじめ、
洋裁技術の習得を目的に専門の学校を設立するなど一貫して服飾関係の技術教育に尽力。
また、服飾関係の技術を身につけた人の雇用の場として、「株式会社ラ・モード」を創立し、特に女性の職場確保に努め、女性の地位向上、雇用促進に尽力。
「株式会社ラ・モード」においては、日本のみならず世界に誇れる服作りを実践した実績により、本県及び西日本のアパレル協会の会長、名誉会長となり、
業界の地位向上にも貢献した。さらには、地域住民の教育の機会拡充と教育水準の向上を願い、私立高等学校を創立し有能な人材を輩出してきた業績を残した。
五十五有余年にわたり、私塾、各種学校並びに高等学校を創設し、地域教育文化の振興に尽力してきたことから、昭和六十二年には服飾教育功労者賞を、
平成元年には紺綬褒章を、平成十八年には旭日小綬章を受章。平成二十年には近代文化功労者顕彰。
県立山鹿高等女学校を卒業後、東京洋裁技芸学院で学ぶ。昭和二十五年、鹿本郡植木町における私塾洋裁教習所の開設をはじめ、洋裁技術の習得を目的に専門の学校を設立するなど一貫して服飾関係の技術教育に尽力。
また、服飾関係の技術を身につけた人の雇用の場として、「株式会社ラ・モード」を創立し、特に女性の職場確保に努め、女性の地位向上、雇用促進に尽力。「株式会社ラ・モード」においては、日本のみならず世界に誇れる服作りを実践した実績により、本県及び西日本のアパレル協会の会長、名誉会長となり、業界の地位向上にも貢献した。さらには、地域住民の教育の機会拡充と教育水準の向上を願い、私立高等学校を創立し有能な人材を輩出してきた業績を残した。
五十五有余年にわたり、私塾、各種学校並びに高等学校を創設し、地域教育文化の振興に尽力してきたことから、昭和六十二年には服飾教育功労者賞を、平成元年には紺綬褒章を、平成十八年には旭日小綬章を受章。平成二十年には近代文化功労者顕彰。
1950年(昭和25年)
植木町に洋裁教習所を開設
1952年(昭和27年)
山鹿市に移転、松浦洋裁技芸学院と改称
1963年(昭和38年)
城北高等家政学校と校名変更
1966年(昭和41年)
城北高等実業学校と校名変更、男女共学校となる
1968年(昭和43年)
学校法人松浦学園設立、理事長となる
1968年(昭和43年)
学校法人松浦学園城北高等学校設立
1973年(昭和48年)
株式会社 ラ・モード創立、社長に就任
1987年(昭和62年)
服装教育功労賞受賞
1989年(平成元年)
紺綬褒章受賞(内閣総理大臣)
1994年(平成6年)
山鹿市制四十周年功労者表彰
2006年(平成18年)
旭日小綬章受章
2008年(平成20年)
近代文化功労者顕彰
MATSUURA SHIZUE EPISODE
MATSUURA SHIZUE
EPISODE
松浦シズエのエピソード
産学一体を実現した経営者 ラ・モード社長
城北高等学校名誉理事長 松浦シズエ
歩行には問題はないが、最近は杖をついている。動きも心なしかゆっくりになった。だが、会社に現れるだけで一種の緊張感がはしる。老いても、その存在感は揺るがない。松浦シズエ、八十六歳。評論家の大宅壮一が生きているなら、「最後の肥後の猛婦」と呼ぶかもしれない。作家の森まゆみなら、「大正の快女」に加えるだろう。生涯現役という言葉は、彼女にこそぴったりだ。
もちろん名ばかりではない。株式会社ラ・モード社長、学校法人ラ・スール学園理事長、松浦服装学院院長、ラ・モード職業訓練校校長を務めている。城北高校を経営する法人松浦学園は、一昨年名誉理事長に退いたが、週一回の理事ミーティングには必ず出席する。山鹿市ではだれもが知る実業家で教育者なのだ。
歩行には問題はないが、最近は杖をついている。動きも心なしかゆっくりになった。だが、会社に現れるだけで一種の緊張感がはしる。老いても、その存在感は揺るがない。松浦シズエ、八十六歳。評論家の大宅壮一が生きているなら、「最後の肥後の猛婦」と呼ぶかもしれない。作家の森まゆみなら、「大正の快女」に加えるだろう。生涯現役という言葉は、彼女にこそぴったりだ。もちろん名ばかりではない。株式会社ラ・モード社長、学校法人ラ・スール学園理事長、松浦服装学院院長、ラ・モード職業訓練校校長を務めている。城北高校を経営する法人松浦学園は、一昨年名誉理事長に退いたが、週一回の理事ミーティングには必ず出席する。山鹿市ではだれもが知る実業家で教育者なのだ。
高級婦人服製造のラ・モードを設立
服装学院を大きくしたが、卒業生が働ける職場が山鹿市にはほとんどなかった。卒業生たちが学んだ技術を生かして収入を得るにはどうしたらいいのか。
昭和三十年代後半から四十年代にかけては既製服の時代といわれ始めたころ。高度経済成長を背景にプレタポルテ(高級既製服)がブームになっていた。
三十六年、松浦服装学院内に縫製部を松浦服装研究所として開設し、福岡の市場に向けた洋服の縫製を始めた。
卒業生は希望すれば更に学びながら収入の道も確保できた。同研究所にはイージーオーダー部とプレタポルテ部があったが、
後に量産体制をつくるプレタ部が好調で、実業学校の卒業生が次々に入所。それに城北高校の卒業生が加わってきた。
仕事の絶対量が不足してくる。どうするか。困っていたときに取引先の問屋が有名なプレタポルテブランドのアパレルメーカーを紹介してくれた。
服装学院を大きくしたが、卒業生が働ける職場が山鹿市にはほとんどなかった。卒業生たちが学んだ技術を生かして収入を得るにはどうしたらいいのか。昭和三十年代後半から四十年代にかけては既製服の時代といわれ始めたころ。高度経済成長を背景にプレタポルテ(高級既製服)がブームになっていた。三十六年、松浦服装学院内に縫製部を松浦服装研究所として開設し、福岡の市場に向けた洋服の縫製を始めた。卒業生は希望すれば更に学びながら収入の道も確保できた。同研究所にはイージーオーダー部とプレタポルテ部があったが、後に量産体制をつくるプレタ部が好調で、実業学校の卒業生が次々に入所。それに城北高校の卒業生が加わってきた。仕事の絶対量が不足してくる。どうするか。困っていたときに取引先の問屋が有名なプレタポルテブランドのアパレルメーカーを紹介してくれた。
ここで、シズエは一大決心をする。
本格的な縫製工場をつくり、既製服の量産体制を整えようと。
洋裁技術を身につけた卒業生たちの就労機会の拡充にもつながる。そう決めたら、考えは揺るがない。
山鹿の総鎮守、大宮神社東隣の用地を確保し、昭和四十八年四月、高級婦人服を製造する株式会社ラ・モードを設立して社長に就任。
レナウンや三陽商会、東京スタイルなど有名ブランドの縫製を手がける西日本屈指の高級婦人服メーカーが誕生した。同年末にはオイルショックが起こり、
いきなり危機に直面するが、その後は急成長を遂げるワールドや海外の有名メーカーのライセンスブランドも手がけるようになる。
昭和五十年代が終わるころにはアパレル業界で大きな位置を占めるようになっていた。
ここで、シズエは一大決心をする。本格的な縫製工場をつくり、既製服の量産体制を整えようと。洋裁技術を身につけた卒業生たちの就労機会の拡充にもつながる。そう決めたら、考えは揺るがない。山鹿の総鎮守、大宮神社東隣の用地を確保し、昭和四十八年四月、高級婦人服を製造する株式会社ラ・モードを設立して社長に就任。レナウンや三陽商会、東京スタイルなど有名ブランドの縫製を手がける西日本屈指の高級婦人服メーカーが誕生した。同年末にはオイルショックが起こり、いきなり危機に直面するが、その後は急成長を遂げるワールドや海外の有名メーカーのライセンスブランドも手がけるようになる。昭和五十年代が終わるころにはアパレル業界で大きな位置を占めるようになっていた。
それでも技術の進歩は速い。
アパレルメーカーはコンピューターを活用した縫製システムづくりを進め、効率化に取り組む一方、
生産拠点をコストが安い中国に移し始める。シズエも競合他社に先んじて上海の工場と取り引きを始めた。
株式会社ラ・モードテクニカルセンターはラ・モードの頭脳集団。宮城県白石市に拠点を置く。
生地の特性を診断するナビゲーションシステムを開発し、業界から注目されている。洋服のパターンや画像のやり取りは宮城・熊本・上海間をデータ通信で結ぶ。
長女の三枝は「出始めの芽を見つけ、それを大きく育てていく天才」だと社長のシズエを評する。
「常に二歩先を見ている」とも。世界に通用する高品質の婦人服を作り続けるには、「先んずれば制す」なのだ。
それでも技術の進歩は速い。アパレルメーカーはコンピューターを活用した縫製システムづくりを進め、効率化に取り組む一方、生産拠点をコストが安い中国に移し始める。シズエも競合他社に先んじて上海の工場と取り引きを始めた。株式会社ラ・モードテクニカルセンターはラ・モードの頭脳集団。宮城県白石市に拠点を置く。生地の特性を診断するナビゲーションシステムを開発し、業界から注目されている。洋服のパターンや画像のやり取りは宮城・熊本・上海間をデータ通信で結ぶ。長女の三枝は「出始めの芽を見つけ、それを大きく育てていく天才」だと社長のシズエを評する。「常に二歩先を見ている」とも。世界に通用する高品質の婦人服を作り続けるには、「先んずれば制す」なのだ。
夢を求めて
戦後一貫して山鹿市で服飾教育と縫製に携わり、昭和六十二年に専修学校教育振興会から服飾教育功労者賞を受賞。平成六年には山鹿市から市制四十周年功労者として表彰を受けた。さらに、平成元年には紺綬褒章、十八年には旭日小綬章を受章した。八十歳を超えてさまざまな表彰を受け、勲章までもらったら、後は悠々自適の生活をおくるのが一般的だ。しかし、シズエの辞書に「引退」の文字はない。
少子高齢化の進展で教育や労働環境が大きく変わってきた。アパレル業界も生産拠点が国内から中国、そしてタイやベトナムに移っている。器用な日本人だからできる洋裁の技術は、今後どうなるのか。米寿が近づいても生涯現役の社長のシズエには、世の中の変化が気がかりで、一日も気が抜けない。高齢者向けの介護付きマンションをつくる夢も諦めていない。
このところの原油高もあった国内の景気はずっと低迷している。アパレル業界も例外ではない。衣食住のうち、真っ先に財布の紐が固くなるのは「衣」というのが持論。業界全体が厳しい経営環境にあるが、「産学一体」の中心にある雇用の場は守りたいというのがシズエの変わらぬ思いである。
/ COMPANY HISTORY /
1949年(昭和24年)11月
松浦服飾学院として創業
1973年(昭和48年)4月
株式会社ラ・モード設立
1982年(昭和57年)4月
労働省国家技能検定実施場指定
1986年(昭和61年)3月
ラ・モード職業訓練校認定
2007年(平成19年)4月
APDS 解析テクノロジーフルシステムによる生産開始
2015年(平成27年)4月
J∞QUALITY企業認定証取得
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